2008年一学期講義 科目名 学部「哲学講義」大学院「現代哲学講義」    入江幸男
講義題目「アプリオリな知識と共有知」

第四回講義 (2008年5月27日)

 
§4 「反射的定義」の検討
 
1、相互信念(共有信念)の反射的(reflexive)定義の検討
  
  MBABpは以下を満たすような命題qである。
     q=BAp∧BAq∧BBp∧BBq 
 
(7.3)は、自己言及的な命題を用いた定義である。もしこのような自己言及的命題が心的表現可能であれば、(7.2)の場合とは異なり、記憶容量は有限ですむ。」(前掲書、pp.179-180
 
反射的定義は次のように必要に応じて無限により高次の知を生み出す。
  q=BAp∧BAq∧BBp∧BBq 
   =BAp∧BABAp∧BAq∧BBp∧BBq)∧BBp∧BBBAp∧BAq∧BBp∧BBq)
必要に応じて、それを生み出せるのは、qが自己言及的な命題になっているからである。
 
批判1:これは共通信念しか表現していない。
上の定義は次のように展開することもできるだろう。
 
 MBABp=q=BAp∧BAq∧BBp∧BBq 
      = BA(pq)∧ BB(pq
            = BA(pBApBAqBBpBBq)∧ BB(pBApBAqBBpBBq
            = BA(pBApBA(BAp∧BAq∧BBp∧BB)BBpBB(BAp∧BAq∧BBp∧BB))   ∧BB(pBApBA(BAp∧BAq∧BBp∧BB)BBpBB(BAp∧BAq∧BBp∧BB)
 
これを何度繰り返しても、aの信念とbの信念が同じ内容を持つという共通信念の表現にしかならないようにおもえる。(ここにBpが何度も登場するが、それがトークン同一であるということが表現されていないからではないだろうか。)
仮に上の三行目以後の展開を認めないとしても、二行目の書き換えは認められるだろう。そして、この二行目は、共通信念の表現にしかなっていないように思える。
(これと同様の批判は、反復的定義に対しても成り立つ。)
 
反論:そのとおりである。しかし、AさんとBさんの各人の信念内容の中のqのところで、両者の信念が同じであるという信念が与えられている。
 
批判:しかし現実にはその保証は以下にして可能だろうか。その保証もまた、AさんとBさんのそれぞれの信念に過ぎない可能性がある。なぜなら、AさんとBさんの信念の中に登場するqは別のトークンであるからだ。なぜなら、qを信じる者が異なるとすれば、それは別のトークンであるからだ。そうすると、ABが同じqを考えており、同じ信念内容をもつと考えていることもまた、それぞれの個人的な信念であり、それらが同一であるという客観的な保証はないことになる。つまり、このような表現では、共有知は表現されていないことになる。
 
反論:我々が持てる共有信念は、せいぜいこのようなものであって、これ以上のものはもてないということなのである。
 
批判2:qへの代入による上記のような展開は可能だろうか。
 q=BAp∧BAq∧BBp∧BBq 
  =BABABABAq∧BBBBq)∧BBBBBABAq∧BBBBq)
 
確かに、一行目のqに一行目自身を代入すると、二行目になる。しかし、このとき、二行目に3回登場するのうちの二度目と三度目は、信念の内容であるから、命題として理解されるべきである。では、それらは信念の主体がそれぞれAとBであるので、異なるトークンであるだろう。ちなみみ、一度目のBAは、命題ではなくて、事実を表現している。つまり、<Aさんがpを信じている>という事実を表現している。(3回登場するについても、その一度目と三度目は、異なるトークンであり、二度目は事実を表現している。)これと同様に、二行目に二度登場するBqもまた異なるトークンを指示するのだろう。なぜなら、それを信じている主体がことなるのだから。
 これと同様に、一行目の右辺に二度登場するqもまた異なるトークンを指示するのだろう。
それで、よいのだろうか。それらは共に、一行目左辺のqを指示すべきである。
 左辺のqは命題を表現するのではなくて、右辺の事実を表現している。そして、右辺の二つのqはAさんとBさんの信念の内容であるから、命題を表現している。命題の表現と事実の表現が同じようにqやBpやBpという記号で表現されるのは、不適切であろう。
 
修正案1:クワインが導入した、de re 信念文とde dicto 信念文の区別を用いて、ここでの信念文をde re 信念文として解釈し、表現しなおすならば、信念文において信じられている対象は、事実(対象の関係)であることになり、タイプとトークンの区別も必要なくなるだろう。それによって、上記の問題は解決するだろう。説明が冗長になるので、ここではとりあえず省略する。
この区別については、
20031学期(2003ss)の講義「信念文のパラドクスと問答」の講義ノート、
拙論「信念文における話し手による指示と信念者による指示」(『待兼山論叢』第37号、pp.35-52, 200312月)
を参照のこと。
 
修正案2:定義の修正
 とりあえず、以下のように考えることによって、上記の問題を解消したい。
pにおいて信じられている対象pは、命題である。
pにおいて、知られている対象pは、事実である。
これにもとづいて、以下のように定義を修正しよう。
 
■相互知識(共有知)の反射的定義
   MKABpは以下を満たすような命題qである。
      q=KAp∧KAq∧KBp∧KBq 
 
これを展開すると次のようになる。
     q=KAp∧KAq∧KBp∧KBq 」
  =KAKAKAKAq∧KBKBq)∧KBKBKAKAq∧KBKBq)
 
この場合には、qは常に事実の表現である。また二行目に三回登場するKBKAもそれぞれ同一の事実を指示する。したがって、タイプとトークンの区別は、ここでは考慮しなくてもよい。
 
 
補足説明:これを自己知について判りやすく説明しよう。
「歯が痛いことを私は知っているだけでなく、歯が痛いことを知っているということを知
っている。」
これを次のように表現できだろうか。次のAを「私」pを「歯が痛い」としよう。
   Bp&B(Bp)
このように表現できるように思われるが、しかし、ここでは、二回登場するBpのトークンが同一であることを表現できていない。(もっともこのことは、上の日常語での表現でも曖昧である。)
トークンが同一であることは、次の式のなかに含意されている。
   q=Bp&B
しかし、この右辺のqに右辺全体を代入した次の式では、二回登場するBpのトークンが同一であることを表現できていない。
   q=Bp&B(Bp&Bq)
 
そこで、これを次のように修正しよう。
   q=Kp&K
    =Kp&K(Kp&Kq)
 
ここでは、二回登場するKpは同一の事実を表現している。
 
2、共有知(相互知識)の反射的定義の検討
 
批判1:共通知識にとどまるのではないか?
共有知の反射的定義
  MKABpは以下を満たすような命題qである。
  q=KAp∧KAq∧KBp∧KBq 
 
これはつぎのように書き換えることが出来る
  q=KA(p∧q)∧KB(p∧q)
   =KA(p∧KAp∧KAq∧KBp∧KB)∧
     KB(p∧KAp∧KAq∧KBp∧KB
 
ここにおいて登場するpもqも常に同一の事実を指示している。したがって、タイプとトークンの区別は、ここでは考慮しなくてもよい。しかし、これはどれだけ反復しても、Aさんの知識とBさんの知識が同一内容であるという、共通知識を表現しているだけである。もちろん必要に応じて、共通知識自身をさらに共通知識の対象にすることができる。しかし、それで共有知だといえるのだろうか。
 このような批判に対しては、以上のことで共有知として十分である、それ以上に何を求めるのか、という反論があるだろう。(うまく言えないが、何かが足りないような気がする。)
 
確認1:AとBは客観的な実在そのものを知ることができる。
  q=KA(p∧q)∧KB(p∧q)
   =KA(p∧KAp∧KAq∧KBp∧KB)∧
    KB(p∧KAp∧KAq∧KBp∧KB
 
Aさんは、KBp(Bさんがpを知っていること)を知っている。KBpは、ここではBさんと事実Pとの間に「知る」という二項関係が成り立っているという事実を表現している。Bさんの全ての知識でなく、限られた知識に関してであっても、Bさんの知識の内容がAさんにとって透明になっている。Aさんは、pを知りうる。またAさんは、BさんのPに対する関係をも知りうる。そこで、ABの知識の内容であるpが同じ事実であることを知りうるのである。ABとpの三者の間に、非常に透明な関係が成立している。
例えば、KAKBKApが成立しているときには、<<事実pとAさんの間に「知る」という二項関係が成立しているという事実>とBさんの間に「知る」という二項関係が成立しているという事実>とAさんの間に「知る」という二項関係が成立している。
 このとき、ABは、客観的な事実pについて知ることが出来ること、相手の客観的な存在について知ることが出来ること、限定された知に関してであるが、ある特定の知については、相手の知の内容そのものを知ることが出来る、ということが想定されている。
 
 
■共有知論の三つの立場
(1)共有知の記述は、個人の知の記述に還元できる。そしてそれは個人の信念に過ぎない可能性が常に残る。
(2)共有知の記述は、個人の知に還元できるが、そこにおいて、個人の知の内容が全く同じになっていることは、客観性が保証されており、それが個人の信念に過ぎないという可能性は全くない。
(3)共有知において、諸個人の知の透明性を保証しているのは、個人の知ではなくて、共同の知である。共同の知が成立している。
 
(1)は成立しない。他者との信念の一致が個人の信念に過ぎない可能性がある、と言う主張は、二つの意味に理解できる。第一に、<世界や他者についての私の知は私の知であるので、客観的に間違っている可能性があり、原理的に確認不可能である>という意味に理解できる。これは認識論的独我論に立つものである。しかし、認識論的独我論と存在論的複数自我論は両立しない。
第二に、<世界や他者についての私の知は、客観的に確認可能であるが、常に間違いの可能性が残る。>からである。
 
 
(2)の知において、共有知の内容に関しては、個人のパースペクティヴの差異がなく、また同一のパースペクティヴの知を持っているのだとすると、そのパースペクティヴは、「我々」のパースペクティヴであり、知る主体は、我々であるといえるのではないか。